因果応報
気学では、すべての現象は原因と結果で成り立っていると考えます。
いいことがあればそれは功徳などでもなんでもなく
あなたがいいことをしたから
そのエネルギ-が返ってきただけ。
仏に祈れば良くなるとは お釈迦様もまったく、いっていないのです。
見えない霊も仏も功徳もなにもない。
いいことがあれば
いいことを行ってきた。
悪いことがあれば 悪いことの原因を切り替えるしかない
切り替えるには
「行(ぎょう)」がないと
切り替わらないよと。
怒りっぽい人が怒りっぽいのを抑えるのは大変です。
すべて「行(ぎょう)」が必要になります。
だから
今目の前の出来事の原因をみて
行動を変えていく(これも行のひとつ)必要があるのですが
原因はひとつではありません。
集合体。
誰かの結果と別の誰かの結果が違うのは
もともと環境も何もかも違うため原因が複合原因だから
自分が様々な出来事やひとと
どう関係をもってきたか。
自分とその人との関わり方、つまり 縁 によって何が起きたかが重要になります。
つまり因果とは縁(関わり方)がまとまったもの。
だからすべての悩みは縁との関係が良くないときに起きる、そう捉えることができます。
悪い友といい関係をもてば悪い結果に。
いい人といい関係をもてばいい結果になる。
だからといってゴマをすっていたら好かれない。
師は「言うべきことをいい、やるべき事をやって、正しいことを述べ、
正しいことを行って、感情の波にさらわれないこと」
といわれました。感情の波にさらわれて、何か言ってはいけないこと、やってはいけないことを
縁としてしてしまえば
相手に嫌われます。
嫌われたらもう終わる。
が、こちらが嫌うから嫌われるときもあります。
なぜ嫌うのか・・・
嫌うだけの理由があります。
自分の昔の苦労の記憶からものごとをとらえ、
「こういう人はこうなるに違いない」と嫌う。
つまり、自分の過去を乗り越えていない、「行」(=学んで学んだことを実践すること)によって
自分の過去を乗り越えていない。
どう乗り越えるのか。
師匠もなく、何の教えもなく、人の体験を聞いて真似をしようとしてもしかたないと
仏教の教えの中でも言われているように、
ひたすら日々の現象を体験する中から真実をつかむ目を育てるしかない。
諸法実相といって
一つの出来事で真実をわかった と思ってはいけないのです。
別のことがある。気学ではそれを九星の象意で教えていきます。
そして 人間社会のルールに照らし合わせその行動や判断がプラスかマイナスかを理解していくこと
それが大切。この考え方は非常に化学的で
昔から言われる「親の因果が子に報い」などありません。
また
師匠が言ったことが本当かどうかを疑うのではなく
それを本気で受けてその通りやろうという行動こそが「行」
「行」じていくとその人の言葉に奥行きがうまれ、
人を引っ張る力が生まれていく・・・それを仏教では説法とよび
真のリーダーシップに欠くことのできない要素となると言われています。
気学講座では、学んでいくと「行」のひとつとして、日常に日盤吉方を取るようになり、
日々の出来事の意味や、人の言葉の中にある別の想いに
気づけるようになっていきます。
そうして
これまで見えていなかったことが
少しずつくっきりと霞が晴れるように
みえるようになり 自分が整い
あらゆる縁が変わってくるのです。
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